法華宗総本山妙満寺は,永徳3(1383)年室町六条坊門に建立されたが,応仁の乱や天文法華の乱などで移転した。天文7(1538)年この地に落ち着いたが,天正11(1583)年,豊臣秀吉(1536~98)の命で寺町二条へ移った。 続きを読む
【かんけていあと】菅家(菅原氏)は文章家として朝廷に仕え,多くの学者を輩出した家。菅原道真(854~903)は,宇多天皇(867~931)に重用され右大臣まで昇ったが,謀反の嫌疑をかけられ九州大宰府へ左遷され,その地で没した。この石標は,南側の白梅殿(菅家累代の邸宅)に対して,紅梅殿と称される道真邸跡を示すものである。 続きを読む
長講堂は後白河上皇(1127~92)の持仏堂で,もともとは西洞院六条の六条院(六条御所)に所在していた。長講堂には膨大な荘園が附属しており,上皇の没後も王家(持明院統)の経済基盤として重視されたが,火災などによりたびたび移転し,天正年間(1573~92)に豊臣秀吉(1536~98)が寺町を整備した際に現在地に移転した。この石標は,元は六条院に所在していた長講堂を示している。 続きを読む
中山家は,藤原北家花山院流の庶流で花山院忠宗次男忠親が家祖。中山忠親(1131~95)は,平安末期から鎌倉初期の公卿で中山内大臣(内府)と称された。その日記『山槐記』は,源平内乱期の重要資料である。この石標は中山内府邸の跡を示すものである。この石標のある中山神社の社名は,忠親邸の跡にあたることに由来している。 続きを読む
豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方向寺(大仏殿)を建立した時、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、伏見港から京へ搬入するために、天正十四年(一五八六)、当時の豪商・角倉了以に命じて、御土居の外に沿って掘らせ、慶長一九年(一六一四)、現・一之舟入(二条 続きを読む
【しじょうぼうもんこうじあと】四条坊門小路は平安京を東西に走る道路で,三条大路と四条大路の中間に位置し,その南には錦小路,北には六角小路が並行して通る。現在の蛸薬師通にほぼ該当し,4丈(約12m)の道幅を有した。この石標はその跡を示すものである。 続きを読む
藻壁門は宮城十二門の一つで,平安宮大内裏西端の,南から二番目の門。切妻瓦葺の門。寛仁4(1020)年に転倒したのをはじめ,たびたび転倒・焼失した。 なおこの石標はKA125平安宮一本御書所跡,KA126平安宮内裏綾綺殿跡,KA127平安宮内裏弘徽殿跡,KA133平安 続きを読む
奨学院は,元慶5(881)年在原行平(818~93)が藤原氏の勧学院に倣って,その西の大学寮南に創建した諸王・同族子弟教育のための大学別曹。昌泰3(900)年大学寮南曹となり,勧学院と並んで「南曹の二窓」と称された。この石標はその跡を示すものである。 続きを読む
【ひらのくにおみほかすうじゅうめいしゅうえんのあと】平野国臣(1828~64)は,福岡藩出身の尊王攘夷派の志士で脱藩して京都で活躍。新選組に追われながら生野の変を起こすが失敗,捕えられこの地にあった六角牢獄に入れられた。元治元(1864)年7月20日,前日の禁門の変で起きた火災が六角牢獄に迫り,入牢者の破獄を恐れた 続きを読む
寛文8(1668)年京都町奉行が創設され,京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当した。東町奉行所は京都代官奉行だった五味備前守屋敷(神泉苑西隣)の地に建てられた。この石標はその跡を示すものである。 続きを読む
豊楽殿は,平安京大内裏にあった豊楽院の正殿。東西九間,南北四間の建物で,屋根には緑釉瓦が葺かれていた。元日節会,新嘗祭・大嘗祭の節会,外国使節入朝時等の国家的饗宴が行われた。完成したのは少なくとも延暦19(800)年以降で,康平6(1063)年豊楽院は焼失し,以後再建されることはなかった。この石標はその跡地を示す 続きを読む
この地は清泉があり「柳水」として有名で,千利休も茶を点じたという。村田珠光(1422~1502)の名を記すのは,茶道の祖といわれる珠光もこの水を使ったということであろう。近世初期には織田信長息の信雄(1558~1630)がこの地に住し,のち肥後加藤家京邸となった。貞享年間(1684~87)以降明治3(1870)年までこの地に徳川御三 続きを読む
この地は,牛若丸(源義経,1159~89)を奥州藤原氏のもとへ伴ったと伝えられる金売り吉次の屋敷跡といわれ,旅立つ際にこの井水を汲んで別れを惜しんだという伝承がある。この石標は首途(かどで)の井戸跡を示すものである。 続きを読む