あじき路地は、大正時代に建てられた築約100年ほどの町家長屋。長年空家だった長屋を大家さんが「ものづくりなどを頑張っている若者に使ってほしい」と、2004年春に入居者を募集。約100件の応募の中から6件の入居者が決まり、みなが家族のように暮らす、職人の住まう町家長屋に。 続きを読む
小野篁(802~52)は,『令義解』を撰進し,遣唐副使に任ぜられながら大使と争い病として渡航しなかったため流罪となった。のち許されて帰京し博識多才をもって知られた。篁は野狂ともいわれ奇行が多く,のちに篁の亡霊が,珍皇寺門前の六道の辻からに冥府に通ったという伝説が生じた。この石標は,その伝説に基いた小野篁の 続きを読む
愛宕念仏寺は,醍醐天皇(885~930)勅願で,延喜11(911)年伝燈大法師千観(918~83)の開基。千観は空也(903~72)の教えを受けて熱心に念仏を進め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたとする。天台宗延暦寺派で,本尊は千手観音。大正11(1922)年右京区嵯峨鳥居本に移転した。この石標は愛宕念仏寺の旧地を示すもので 続きを読む
奥田頴川(1753~1811)は,本名を頴川庸徳といい,祖先は頴川郡(現中華人民共和国河南省)の出身。京都で代々質屋を営んだ。頴川も三十代まで家業を営むが作陶を志し,建仁寺内に開窯。天明年間(1781~89)に京焼最初の磁器焼成に成功した。呉須赤絵は有名。門下から青木木米らの名工を出し,江戸後期の京焼全盛期を築いた。こ 続きを読む
[西] 右 大谷とりへの西 すく 清水大津道 左 六はらきをん東大谷[東] すく 五条通大ふつ東 いまくまミち 続きを読む
弘長2(1262)年に没した親鸞(1173~1262)は,鳥辺野北の大谷に葬られ,末娘の覚信尼(1224~83)が文永9(1272)年に現在の知恩院三門北の崇泰院あたりに廟堂を営み,遺骨を安置した。その堂は内紛のため破壊されたが,三世覚如(1270~1351)が再建し専修寺と号し,さらに本願寺と改称した。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に 続きを読む
この地は,清涼山光明真言院正林寺という浄土宗の寺。もと関白九条兼実(1149~1209)の別業の地で,兼実は浄土宗開祖円光大師(法然,1133~1212)を請じ,度々法談を行った。のち法然の寺坊となり,承元元(1207)年の法然流罪で中世には廃絶したが,享保18(1733)年に義山・恵空が北野の正林寺を移して中興した。宝暦年間(1751 続きを読む
八坂墓とは,光孝天皇(830~87)の外祖母である贈正一位藤原数子(生没年未詳)の墓のこと。『延喜式』には愛宕郡八坂郷にあったと記されているが,現在は正確な比定地はわからない。この石標は八坂墓を示すものであるが,竹村俊則『新撰京都名所図会』巻1(1958年白川書院刊)によればもとは現在地よりもやや東の金園町内に所在していたという。 続きを読む
歌の中山は,清閑寺の寺伝に「見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」という歌が詠むまれた場所をいう。清閑寺は,もと天台宗,現在は真言宗智山派で清水音羽山中腹に位置する。謡曲「融」に「語りも尽くさじ言の葉の,歌の中山清閑寺,今熊野とはあれぞかし」と歌の中山と清閑寺は対でよばれることが多 続きを読む
猿楽は,古代宮廷の余興や寺社の祭礼に興行されていたものに,鎌倉期歌舞的要素が付加されたものであり,能楽の源流とされている。大和結崎座の観阿弥(1333~84)と子世阿弥(1363~1443)によって,応安7(1374)年,この地今熊野神社の社頭で,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)の御前能として演ぜられたことにより京中で 続きを読む
[東](手印)すぐいまぐまくわんおん[北] 三宝大荒神道右 洛陽楊貴妃観世音[西]ふじいくに[南]為二世安楽 ゑび安 続きを読む
【いのうえせいがいしひ】侯爵井上馨(号世外)自作の詩の対句を表に記し,裏面には中井慈眼という人物が京都の風致整備に尽くしたことを記す。中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明 続きを読む