奥田頴川(1753~1811)は,本名を頴川庸徳といい,祖先は頴川郡(現中華人民共和国河南省)の出身。京都で代々質屋を営んだ。頴川も三十代まで家業を営むが作陶を志し,建仁寺内に開窯。天明年間(1781~89)に京焼最初の磁器焼成に成功した。呉須赤絵は有名。門下から青木木米らの名工を出し,江戸後期の京焼全盛期を築いた。この石標は奥田頴川邸宅の跡を示すものである。 続きを読む
【いのうえせいがいしひ】侯爵井上馨(号世外)自作の詩の対句を表に記し,裏面には中井慈眼という人物が京都の風致整備に尽くしたことを記す。中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明 続きを読む
弘長2(1262)年に没した親鸞(1173~1262)は,鳥辺野北の大谷に葬られ,末娘の覚信尼(1224~83)が文永9(1272)年に現在の知恩院三門北の崇泰院あたりに廟堂を営み,遺骨を安置した。その堂は内紛のため破壊されたが,三世覚如(1270~1351)が再建し専修寺と号し,さらに本願寺と改称した。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に 続きを読む
八坂墓とは,光孝天皇(830~87)の外祖母である贈正一位藤原数子(生没年未詳)の墓のこと。『延喜式』には愛宕郡八坂郷にあったと記されているが,現在は正確な比定地はわからない。この石標は八坂墓を示すものであるが,竹村俊則『新撰京都名所図会』巻1(1958年白川書院刊)によればもとは現在地よりもやや東の金園町内に所在していたという。 続きを読む
[西] 右 大谷とりへの西 すく 清水大津道 左 六はらきをん東大谷[東] すく 五条通大ふつ東 いまくまミち 続きを読む