管理用。
1. 旧桑名藩士の墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 明治元年(1868)9月20日の戊辰戦争寒河江戦で戦死した旧幕府軍の桑名藩士18名と、唐津藩士1名の遺体は陽春院19世の住職により境内に埋葬され、明治8年7月に、旧桑名藩主松平定敬公と旧藩士により七回忌の法要が営まれ、墓碑が建立されました。(寒河江市 HPより)
2. 大田垣蓮月尼 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 墓碑には「大田垣」とある。「太田垣」ではない。
3. 島左近 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 立本寺の墓地にある。案内板が整備されているので、墓地内で探し出すことは容易である(2013/5現在)。東大寺三笠霊園にもある島左近墓よりはよほど探しやすい。左近の墓は他にも何ヶ所かあるらしい。
4. 蒙古塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 「蒙古塚 当社森の中に七ツありとぞ、今詳ならず、夷賊退治の後、軍将の首をこゝに埋て神威を現し給ふなり」(『都名所図会』より)
5. 大石権内良昭(大石内蔵助良雄実父)墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 大石内蔵助の父、大石権内は大石家の家督相続前の34歳で大坂で病没。内蔵助が祖父良欽の養子となって大石家を相続した。四十七士の一人である大石瀬左衛門の父、八郎兵衛信澄の墓もある。
6. 藤原家隆 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 「新古今集」の選者の一人であった歌人藤原家隆が晩年、この地に小庵を営み日想観を修した、といわれる場所。
7. ウォーナー塔
8. 調子丸古墳
K.Watch: 聖徳太子の仕丁「調子麿」の埋葬伝承があるが、古墳時代中期に作られた円墳と考えられている。現地に近づくには、あぜ道を通ることになる。
9. 雨森家元祖墓所
10. 光明定院墓以下三墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 東山天皇皇女・光明定院、霊元天皇皇曾孫女・真珠光院、霊元天皇皇曾孫女・得菩提院の墓所。
11. 何かの石
12. 衣懸け塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 常盤井から細い路地を入ると右手に現れる。常盤御前がらみの塚とか言われることもあるらしいが、現地で聞いた話ではどなたかの天皇陵であるらしく、衣懸けとは遺骸にかけた衣であるとか。後朱雀天皇か、堀河天皇か、二条天皇か、どなたかの陵墓だが特定できないため宮内庁指定に外れたという説明もあるが、それならば参考地になってもいいのではないかと思ったりもした。
13. 柳原紀光墓(柳原紫竹墓地)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 柳原紀光(やなぎわらのりみつ・1746~1800)は、江戸時代の公卿で、『続史愚抄』という歴史書を著した学者。「寛政十二年正月四日薨ず、年五十四、此地もと柳原家所領、紀光卿の主義に依り、歿後は何等宗教的形式に據らざる方法にて埋葬せよとの遺言に基き、菩提寺に屬せざる此處に葬りしなり。柳原家傳」(寺田貞次『京都名家墳墓録』[村田書店・1922]) つまりは、無宗教でやってくれと遺言したとのこと。
14. 佐土原藩戦没招魂塚
15. 石川五右衛門 墓所
16. 織田信忠・信長 墓所(大雲院)
17. 平康頼・西行法師・頓阿法師 供養塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 安元3年(1177)、後白河法皇による平家打倒の企て(鹿ヶ谷の陰謀)は露見し、院の近臣であった平康頼(たいらのやすより)、藤原成経、俊寛僧都は鬼界ヶ島に流罪となった。のちに俊寛以外は赦免され、康頼も京に戻り、東山双林寺のほとりにあった山荘に隠棲した。
18. 祇園女御塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 『都名所図会』には「この地を耕せんとすれば祟りありとぞ」(写真最終行)とある。それがある日、あっさり塚が撤去されて更地となり鉄筋の建物ができた(2004年頃)。その鉄筋の建物は祇園寺と称し、新たな祇園女御の石塔が出現した。それが近年、祇園寺は京都祇園堂と名称が変更されて、のみならず新しい石塔が撤去され、前の石塔が復活していた(2013/9確認)。
19. 豊臣秀頼公 首塚
Jagar Mogar: 1980(昭和55)年、大坂城三の丸跡から発掘された頭蓋骨が大坂城夏の陣で自害した豊臣秀頼のものと確実視され、1983(昭和58)年に秀頼が再興につくした清凉寺のこの塚に納められました。
20. 京都大学医学部納骨墓地
21. 後藤祐乗 墓所
22. 富士谷成章 墓所
23. 小林古径塔
24. 新選組総長 山南敬介墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 新選組総長、山南敬介(やまなみけいすけ・1833~65)は、新選組結成当初からの古株であったが、何らかの事情で脱走を図り、「局ヲ脱スルヲ許サズ」なる条文がある局中法度とかいうのに違反したとかで切腹させられた。ここ光縁寺墓地には、他にも似たような理由で詰め腹を切らされた隊士たちが葬られている。
25. 新選組隊士墓所 壬生塚
26. 楠正勝(楠木正勝) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 楠正勝(くすのきまさかつ)は、楠木正成の孫で、千早落城後に弟正元と共に十津川郷に入り、武蔵において再挙を図ったが病に倒れてこの地に葬られたと伝わる。毎年4月3日に祭典が行われているという。(十津川村HPより) 正勝は尺八を吹く虚無僧(こむそう)の元祖ともいわれ、また曹洞宗の禅僧傑堂能勝(けつどうのうしょう)がその人であるともいう。常陸の筑波山神社、大阪市東淀川区の定専坊にも墓所と伝わる場所がある。
27. 佐久間信盛 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 佐久間信盛(さくまのぶもり)は、織田信長の家臣。織田家中の重臣であったが、突然折檻状を送られ、追放された。十津川でその生涯を終えたと伝わる。
28. 日承王墓
29. 本能寺の変戦没者合祀墓
30. 道元禅師 墓所
31. 藤原俊成 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 墓地自体がかなり分かりにくい場所にある。住宅地の中に取り残されるように墓地があり、その中央に「五條三位俊成卿 東福寺兆殿司 墓所」と書かれた碑のある一角がある。その中に5つの墓碑があり、どれが誰にあたるかを示した石碑も副えられているが、そこには4つの墓碑についてしか書かれていない。
32. 南明院殿 旭姫(徳川家康正室・豊臣秀吉妹)墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 旭姫(朝日姫・1543~90)は豊臣秀吉の妹。天正14年(1586)、豊臣家と徳川家の間をとりもつために、徳川家康の継室として、前夫と離別のうえ嫁がさせられた。天下人を兄としてしまったために数奇な生涯を送った御方。
33. 味方但馬 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 味方但馬(みかたたじま・1563~1623)は佐渡金山の開発者。というだけで何となくボロ儲けした人物ではないかと勝手に想像してしまう。市バスに乗って、堀川鞍馬口交差点付近で塀越しに上部だけ突出している石塔を見かけたら、佐渡金山の人の墓だと思っていただきたく。
34. 山名宗全 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 最近出たなんとかいう京都の墓の本に参拝自由と書いてあったから、普通に入っていってよいらしい。墓地へずずっと行き、道なりにぐいぐいっと行けば、正面にあるので探すことはないはず。
35. 伝 畠山義豊(畠山基家) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 畠山義豊(はたけやまよしとよ・?~1499)は、応仁の乱で畠山家を二分して戦った畠山義就(よしなり・よしひろ)の子で、初名を基家(もといえ)といった。義就の後を継いだが、畠山家の内紛は次世代にも引き継がれ、明応8年(1499)1月30日、父が生涯戦った畠山政長の子・畠山尚順(ひさより・ひさのぶ)によって、河内十七箇所に攻め滅ぼされた。この五輪塔は昭和23年に発見され、昭和55年に現在地に移された。
36. 宇治陵 総拝所
37. 常陸大明神(木村常陸介 墓所)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 木村常陸介(きむらひたちのすけ・?~1595)は豊臣秀次の重臣。秀吉の麾下として賤ヶ岳合戦、小牧長久手の戦いの戦功で越前国府中十二万石の大名となり、文禄の役でさらに十八万石に加増された。奥州征伐の頃から秀次の付け家老とされたが、秀次が秀吉の逆鱗に触れた際に秀次を庇ったことから摂津大門寺で切腹させられた。(『淡交別冊61・利休と七哲』参照)
38. 東山本町陵墓参考地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 陵墓参考地(りょうぼさんこうち)は、皇族の墳墓と考えられるが被葬者を特定するに至らない陵墓を「参考地」として宮内庁が管理しているところ。ここは、九条廃帝と呼ばれた仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、1218~34)の御陵の可能性のある参考地で、かつて墳丘上に天皇を祀る塚本社があったが、五条坂の若宮八幡宮社に合祀された。
39. 鯨供養碑
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 元禄8年(1695)に小田鯨組が建立。小田家墓所の入口にある。それを示す標柱は倒れていて(2013/12現在)、この墓石をそれと判別するのはなかなか困難。
40. 大坪永章玄能 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 大坪玄能(藤原永章)は狩野永徳の弟子で、五島藩お抱えの絵師。第八代藩主五島盛運(もりゆき)のときの天明6年(1786)、藩絵師となった。代表作に、五島市吉田町にある明星院本堂天井絵、釈迦涅槃図(明星院蔵・通常非公開)、八幡神社奉納絵馬(五島観光歴史資料館寄託)などがある。宗念寺にあるこの墓碑は、丸い台石が硯の形になっており、文字の彫ってある墓石を墨に見立てているという。
41. 坂部貞兵衛 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 伊能忠敬の第八次測量で、五島列島の測量が行われたが、文化10年(1813)、測量隊で忠敬の信頼の厚かった坂部貞兵衛(さかべていべえ)が病で死亡した。五島藩では3日間、市中の歌舞音曲を停止させ、貞兵衛の死を悼んだという。
42. 五島家歴代墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 旧五島領主宇久家・五島藩主五島家の墓地。菩提寺である大円寺の山門を入って左に続く一帯と山門前の橋を渡り、石灯籠の左右にならぶ参道を登った地域との2箇所にある。大円寺横墓地に第16代囲公から第25代盛暢公まで、川向うに第26代盛住公から現在にいたる五島家当主の墓がある。(第19代純尭墓は清浄寺、第32代盛主墓は東京麻布の吉祥寺にある。それ以前の領主の墓は宇久、岐宿に所在する。)[五島市観光協会]
43. ワイル・ウエフ号 潮合崎遭難者墓碑(龍馬ゆかりの碑)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 坂本龍馬が長崎のグラバーから購入した練習船ワイル・ウエフ号は、潮合崎(しおやざき)で暴風雨にあって遭難した。亀山社中の乗組員12名が死亡し、龍馬が地元に依頼して建立された慰霊碑。墓碑にある「細江徳太郎」は土佐脱藩池内蔵太の変名。所在が分からなかったが、昭和43年に地元の俗謡をきっかけに共同墓地にあるこの墓碑が発見された。
44. 頭ヶ島キリシタン墓地
45. 淀君並殉死者三十二名忠霊塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で徳川方に敗れた豊臣秀頼と淀殿の親子は山里丸で家臣とともに自害した。豊臣家と命運を共にした32名の慰霊のために、有志によって観音像が安置されている。側近、大野修理治長、その母大蔵卿局、真田幸村の一子真田大助ら、32名の名も記されている。
46. 伏見宮墓地
47. 佐久間象山 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 佐久間象山(さくましょうざん・ぞうざん)は元治元年(1864)7月11日、三条木屋町において尊攘派の肥後熊本藩士河上彦斎(かわかみげんさい)に暗殺された。享年五十四。殺害現場に「象山先生遭難之碑」がある。 http://4sq.com/vZl27o
48. 平康頼之塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 安元3年(1177)、後白河法皇による平家打倒の企て(鹿ヶ谷の陰謀)は露見し、院の近臣であった平康頼(たいらのやすより)、藤原成経、俊寛僧都は鬼界ヶ島に流罪となった。のちに俊寛以外は赦免され、康頼も京に戻り、東山双林寺のほとりにあった山荘に隠棲した。双林寺にも供養塔がある。 http://4sq.com/195tGT3
49. 五大力之碑(五人斬追善碑)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 元文2年(1737)7月3日、曽根崎新地の桜風呂の娼婦菊野の馴染客であった薩摩藩士早田八右衛門は、菊野をはじめ、青楼主人大和屋重兵衛、女房とめ、下女くら、同きよの5人を斬り殺した。その供養塔が明治42年(1909)の天満の大火で類焼して破損したため、大正14年(1925)に再建された。旧碑を砕いてここに埋め、「五人斬」の名称も「五大力」に改めた。などなど、石碑の周囲に書いてある。
50. 矢頭長助 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 赤穂四十七士の一人、矢頭右衛門七(やとうえもしち)の父の墓。赤穂浅野家断絶の後、赤穂藩士矢頭長助は大坂で病を得て、元禄15年(1702)8月15日に死亡した。享年45。父の志は18歳の子息右衛門七が受け継ぎ、同年12月14日、吉良邸討ち入りを果たした。長助の左隣に右衛門七の供養塔も建てられている。
51. 馬町十三重石塔(佐藤継信忠信塔)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: この石塔は、ここから500mほど北東、馬町(東山区渋谷通東大路東入)の路地裏にありました。塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられていました。昭和15年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元されました。その際小さな仏像や塔などの納入品が発見されています。南塔には、鎌倉時代後期、永仁3年(1295)の銘文が刻まれています。(京都国立博物館HPより)
52. 醍醐天皇皇太子 慶頼王墓
53. 坂田藤十郎 墓所
54. 高橋多一郎父子墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 高橋多一郎(たかはしたいちろう・1814~60)は、桜田門外の変の首謀者の一人。大坂で潜伏していたのを幕吏に知られ、子息庄左衛門と共に自刃した。
55. 別当大師光定 御廟所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 伝教大師最澄に仕えた別当大師光定(べっとうだいしこうじょう)の廟所。最澄の廟所である浄土院のすぐ近く、生前かくあったかのように近侍している。
56. 王塚古墳
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 5世紀前半に築造された直径80m・高さ7mの、平地に築かれたものとしては滋賀県最大級の円墳。天平宝字8年(764)の恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん・藤原仲麻呂の乱)で討たれた塩焼王(しおやきおう・氷上塩焼)の墳墓とする伝承が残っているという。
57. 白米塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 北仰(きとげ)集落の入口付近にあり、円墳の上には宝篋印塔の笠石を載せた花崗岩の方柱が立っている。文治3年(1187)、戦に破れ山伏に扮した源義経の一行が角大明神(現在の津野神社)の神官に宿を求めたところ、里人たちは白米や野菜を持ち寄って一行をもてなした。その一行が残した白米と共にその時与えられた扇子などを土に埋めて塚を築いたと伝えられている。(高島市立図書館HPより)
58. 後宮塚 陵墓参考地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 宮内庁管理の陵墓の中で、最も味わい深いロケーションに立地しているのではなかろうか。この地には、鳥羽院が田中殿の御堂として造営された金剛心院の九体阿弥陀堂があったことが発掘調査から明らかとなっており、それを併せて顧みれば、ますます味わい深い。
59. 石童丸母君 千里姫之墓
60. 鳥羽天皇皇后 美福門院得子 高野山陵
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 美福門院藤原得子(びふくもんいんふじわらのなりこ・1117~60)は、鳥羽天皇の寵愛を受け、鳥羽院政期に絶大な権勢を振るった。京都鳥羽の安楽寿院に葬られる予定であったが、本人が高野山を墓所に願い、女性として初めて、女人禁制であった高野山内に埋葬された。
61. 正親町天皇皇孫 智仁親王以下七墓 桂宮東ノ墓地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 正親町天皇皇孫智仁(としひと)親王、正親町天皇皇曾孫智忠(としただ)親王、後水尾天皇皇子穏仁(やすひと)親王、智仁親王妃常照院(じょうしょういん)、後西天皇皇子長仁(おさひと)親王、後西天皇皇子尚仁(なおひと)親王、霊元天皇皇子作宮(さくのみや)が葬られているらしい。代々の八条宮家の方々。初代智仁親王と二代智忠親王の二代にわたって造営されたのが、あの桂離宮。
62. 霊元天皇皇子 文仁親王墓以下八墓 桂宮西ノ墓地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 霊元天皇皇子文仁(あやひと)親王、家仁親王妃基子、公仁親王妃室子(しつこ)女王、霊元天皇皇女家仁(やかひと)親王、霊元天皇皇曾孫公仁(きんひと)親王、公仁親王妃寿子(ながこ)、光格天皇皇子盛仁(たけひと)親王、仁孝天皇皇子節仁(みさひと)親王が葬られているらしい。誰も知らん・・・。
63. 鳥羽天皇中宮 待賢門院璋子 花園西陵
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 待賢門院藤原璋子(たいけんもんいんふじわらのしょうし・たまこ・1101~45)は、鳥羽天皇の中宮で、崇徳天皇、後白河天皇の生母。康治元年(1142)、法金剛院において落飾した。
64. 仁和寺宮墓地
65. 村上天皇皇后安子火葬塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 藤原安子(927~964)は、村上天皇の中宮。右大臣藤原師輔(もろすけ)の長女。入内して、冷泉天皇、円融天皇をはじめ、多くの子女を儲けた。ために天皇家外戚の地位を得た師輔の系譜は、兄である藤原実頼(さねより)の小野宮流を抑えて氏長者(うじのちょうじゃ)を引き継ぎ、いわゆる藤原摂関時代を迎える、その礎を築いた御方。ここは火葬塚で、墓所は宇治陵にある。
66. 明治維新 都城六勇士墓所
67. 修円僧都廟
68. 織田信雄 墓所(室生寺)
69. 桂昌院塔
70. 鐵道職員殉職者追善供養塔
71. 坂上廣野麿 墳墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 坂上廣野麿(さかのうえのひろのまろ)は、蝦夷を平定した坂上田村麻呂の第二子。杭全庄を賜わった廣野麿は当地を開発し、「平野」の地名の語源になったともいう。子孫は平野七名家(ひちみょうけ)となり、現在までつながっている。毎年5月23日の杭全神社田村祭のあと、この墓所にも参拝がある。
72. 安藤正次 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 安藤正次(あんどうまさつぐ・1565~1615)は三河武士。大坂夏の陣のとき単身、豊臣方の武将を討ち取ったが自らも深手を負った。徳川秀忠よりその功名を讃えられたが、傷が深いために自刃したという。
73. 自然居士之墓(荒木自然塚)
74. 奥州仙台伊達家墓所
75. 薩摩島津家墓所
76. 雪山道人 河口慧海供養塔
77. 曽我兄弟供養塔
78. 加賀前田家墓所
79. 森忠政墓所
80. 筑後久留米有馬家墓所
81. 佐竹義重霊屋
82. 長州毛利家墓所
83. 河野通直墓所
84. 熊谷直実・平敦盛供養塔
85. 多田満仲墓所
86. 徳川頼宣墓所
87. 奥州南部家墓所
88. 紀州徳川家墓所
89. 榊原康政墓所
90. 井伊掃部頭廟
91. 本多忠勝墓所
92. 正清院振姫墓所(二番石)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 正清院(しょうせいいん・1580~1617)は、徳川家康三女で名を振姫(ふりひめ)といった。最初、会津藩主蒲生秀行に嫁いだが、のち和歌山藩主浅野長晟(あさのながあきら)に再嫁した。元和3年(1617)に光晟(みつあきら)を産んだが産後の肥立ちが悪く没し、長晟は一周忌にこの石塔を奥之院に建立した。高野山で2番目に大きい石塔で「二番石」と呼ばれる。元和5年、浅野家は芸州広島へ加増移封となった。
93. 高麗陣敵味方戦死者供養碑
94. 崇源夫人五輪石塔(一番石)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 高野山奥之院に林立する石塔の中で、一番大きい墓石。崇源院(すうげんいん)は、浅井長政とお市の方の娘で、いわゆる浅井三姉妹の三女。江(ごう)、小督(おごう)、お江与(えよ)などと呼ばれ、数奇な運命で二代将軍徳川秀忠の正室となった。没後、次男の徳川忠長によってこの大きな供養塔が建立された。
95. 前田利長墓所(三番石)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 前田利長(まえだとしなが・1562~1614)は、前田利家の長男。利家没後、徳川家康に与して、関ヶ原の戦いの後、加賀藩百二十万石の初代藩主となった。慶長19年(1614)に没し、この石塔はその1年1ヶ月後に母芳春院(ほうしゅんいん)の勧めによって、弟で養子の二代藩主利光(後の利常)が建立した。高野山で三番目に大きい石塔で「三番石」と呼ばれる。
96. 法然上人廟所
97. 安芸浅野家墓所(浅野長政・幸長・長晟 墓所)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 安芸浅野家墓所にある三基の五輪塔のうち、中央が豊臣家五奉行筆頭であった浅野長政(あさのながまさ)の墓。向かって右が長男幸長(よしなが)、左が次男長晟(ながあきら)の墓となっている。浅野幸長は関ヶ原の戦功で紀州和歌山三十七万石の初代藩主となった。子がなく、弟の長晟が二代藩主となったが、元和5年(1619)に福島正則の改易によって、その跡を受けて芸州広島四十二万石に加増転封となった。
98. 筒井順慶墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 織田信長の墓に向かって左隣にあるので、ちらっとでも見てあげてほしい。
99. 仙陵
100. 大津籠城戦死者追弔碑
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 関ヶ原の戦いの前哨戦、大津籠城線の戦死者の供養塔。慶長5年(1600)、反徳川方の諸将を糾合して挙兵した石田三成は伏見城を落城させたが、大津城の京極高次は徳川方に着いた。しかし多勢に無勢、大津城は開城し、高次は高野山へ退去した。この大津城が開城した9月15日、関ヶ原で合戦の火ぶたが切られた。
101. 結城秀康石廟
Yuji Ichiyoshi: 重要文化財?らしく。
102. 伝 卑弥呼の墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 邪馬台国徳島説ではここ、天石門別八倉比売神社の本殿裏、一段高いところに祀られる奥之宮の五角形の祭壇こそ、卑弥呼の墓であるという。
103. キリシタン墓碑
104. 八尾別当顕幸 墓所
105. 河内家菊水丸 墓所(生前墓)
106. 勢伊死事碑・藤堂家臣七十一士墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 元和元年(1615)5月6日、大坂夏の陣で八尾、萱振、久宝寺は西軍の長宗我部盛親と東軍の藤堂高虎の激戦地となり、藤堂家中の戦死者71名の墓所が常光寺にある。重臣であった、桑名弥次兵衛・藤堂勘解由・山岡兵部・藤堂仁右衛門・藤堂新七郎・藤堂玄蕃の五輪塔(向かって右より)が前面にある。百五十回忌に子孫によって建てられたのが勢伊死事碑(せいいしじひ)で、以後、50年おきに藤堂家によって法要が行われてきた。
107. 早良親王供養塔
108. 今里車塚古墳
109. 巴御前供養塔
110. 大石九右衛門良信ほか 大石家祖先の墓
111. 六條判官 源為義墓所
112. 秋篠昭足 墓所
113. 佐々成政公 供養五輪塔
114. 島左近 墓所
115. 足利義教 首塚
116. 秀林院 細川玉子(細川ガラシャ)墓所
117. 遠城兄弟墓所(崇禅寺馬場 遠城兄弟終焉之地)
118. 桓武天皇皇子 伊豫親王 巨幡墓(黄金塚2号墳)
119. 多聞城有縁無縁供養 墓石群
120. 崇峻天皇皇子 蜂子皇子墓(能除太子墓所)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 宮内庁管轄の墓所であるが、蜂子皇子の墓所の比定については、明治初年の調査のときに、村人たちが面倒になることをおそれて知らないふりをしたために新しく作られたもの、であるという。皇野(すべの)に本当の墓であるともいわれる開山塚がある。また、文政6年(1823)に朝廷より「照見大菩薩(しょうけんだいぼさつ)」の菩薩号を賜ったときに建てられた供養塔が開山廟として、蜂子神社(羽黒山開山堂)の背後にある。
121. 岩根沢日月寺 歴代墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 羽黒山を中興した第50代別当天宥(てんゆう)は7歳のとき、師の宥俊(ゆうしゅん)が日月寺にいたときに弟子となって仏門に入った。父母の供養塔が、日月寺歴代墓所の中にある。天宥の墓所は配流先の伊豆新島にある。岩根沢では今でも、恩恵を受けた天宥の墓参にはるばる行くことがあるという。
122. 本明海上人 入定塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 本明海上人(ほんみょうかいしょうにん)は俗名を富樫吉兵衛といい、藩主酒井侯の病気平癒祈願のため湯殿山に参詣したところで霊感があり、そのまま山を下りず、注連寺に入って一世行人となったという。天和3年(1683)5月8日、61歳で土中入定し即身仏となった。お留守でなければ本明寺で拝観できる。
123. 源頼朝 亀谷禅尼 供養塔
124. 伝 式子内親王墓所
125. 道元禅師 荼毘塔
126. 中宮塚陵墓参考地
127. 久我大臣之墓
128. 小野小町・深草少将 供養塔
129. 元政上人御廟所
130. 日像菩薩御廟所
131. お万の方供養塔
132. 勝海舟母 信子・妹 じゅん 墓所
133. 三浦泰村一族墓所
134. 島津忠久墓
135. 毛利季光墓
136. 藤原家隆・藤原定家・寂蓮法師 供養塔
137. 池大雅 墓所
138. 梅田雲濱 墓所
139. 阿茶の局 墓所
140. 影清塚
141. 冷泉天皇皇后 昌子内親王 岩倉陵
142. 黒田如水 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 黒田如水(官兵衛孝高・1546~1604)は慶長9年(1604)3月20日、京都伏見屋敷で逝去した。辞世「おもひをく言の葉なくてつゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。関ヶ原の合戦の戦功で筑前五十二万石の領主となっていた嫡男黒田長政は崇福寺に墓所を建立した。向かって右に正室櫛橋氏(照福院・光姫)、左に慶長の役で水難にあった次男黒田熊之助の墓がある。如水の墓は他に京都龍光院、高野山奥之院にある。
143. 黒田長政 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 福岡藩初代藩主黒田長政(1568~1623)は、元和9年(1623)8月4日、京都寺之内の鳴虎報恩寺で逝去した。辞世「此ほどは浮世の旅に迷ひきて いまこそ帰れあんらくの空」。報恩寺には黒田長政臨終の間と伝わる部屋が残されている。向かって左にあるのは殉死者の墓。昭和25年に墓碑が作り直されたが、旧墓の笠石が墓地南側に残っている。長政の墓は他に渋谷区広尾の祥雲寺、京都大徳寺龍光院、高野山奥之院にある。
144. 玄洋社墓地(頭山満・来島恒喜・高場乱 墓所)
145. 長宗我部信親 墓所
146. 元親公 愛馬之塚
147. 山内経之供養塔
148. ほどくぼ小僧 勝五郎の前世 藤蔵の墓
🐑: 信じるか信じないかはあなた次第…わたしは信じる
149. 上杉堂 (上杉憲顕公墳)
150. 徳川秀忠夫人崇源院 江姫(お江与の方)供養塔
151. 浅野家三代の墓(浅野長直・長友・長重 墓所)
152. 播州赤穂藩主 森家墓所
153. 義士墓所(浅野内匠頭 および大石内蔵助以下 四十七士墓所)
154. 菅公御母君 伴氏廟
155. 寿福院塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 加賀藩祖前田利家の側室で三代藩主利常の生母でもある千代保(ちよぼ)こと寿福院(じゅふくいん・1570~1631)は熱心な日蓮宗信者で、妙顕寺にも本堂、五重塔を建立した。この十一重石塔も寿福院が生前に奉納した逆修塔。池上本門寺にも同じ意図で建てられた石塔がある(https://4sq.com/2JEnNnZ)。
156. 山本宣治 墓所
157. 太敬菴通圓之墓
158. 尾形光琳 顕彰碑
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 尾形光琳百回忌に酒井抱一(さかいほういつ)が建てた墓のあったところ。尾形光琳は享保元年(1716)に死去。妙顕寺塔頭興善院に葬られたが、興善院は退転し本行院の管理となった。天明の大火で本行院も焼失し、光琳の墓は妙顕寺総墓所に移された。その墓を発見できなかった酒井抱一は本行院の跡地に「長江軒青々光琳墓」を建立した。本行院を合併して再建された泉妙院は光琳菩提所を主張し、近年墓は移された。その跡地。
159. 伝 俵屋宗達墓所
160. 狩野家累代之墓(狩野元信 墓所・狩野永徳 墓所)
161. 萬福寺 寿塔(開山 隠元禅師塔所)
162. 仁孝天皇皇子 鎔宮墓・孝明天皇皇女 壽萬宮墓
163. 大仏師 定朝墓所
164. 業平塚
165. 古冨波山古墳
166. 宮山二号墳
167. 真田幸村(真田信繁) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 龍安寺鏡容池内、弁天島の中にあるらしいが、公開された話を聞かない。池の中ではいかに策を巡らしても忍びこむこともできず、さすが真田・・・。池越しに参拝。
168. 後朱雀天皇皇后 陽明門院 禎子内親王 圓乘寺東陵
169. 細川勝元 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 墓所は、龍安寺の裏側の墓地内にあり入れないが、天皇陵参道から垣間見ることはできる(2015/1現在)。後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇の三帝陵の前あたりから見える宝篋印塔のうち、背の高いのがそれであり、勝元室春林寺殿(山名宗全養女)、嫡子細川政元の墓も並んであり、この一画は細川家嫡流である京兆家の墓域になっている。
170. 近衞家廟所
171. 坪内逍遙夫妻 墓所
172. 七士之碑
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 極東国際軍事裁判において有罪判決を受け、いわゆるA級戦犯として処刑された7人、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根、広田弘毅の墓所。昭和23年(1948)12月23日に絞首刑に処された7人は即日火葬され、遺骨は東京湾に遺棄されたが、僅かに残った遺骨の持ち出しに成功し、隠匿する場所として松井石根が創建した興亜観音に持ち込まれた。石碑が建立されたのは昭和34年のことであった。
173. 足利尊氏 墓所
174. 尊覺親王墓以下二墓 一乗院宮墓地
175. 幸野楳嶺 墓所
176. 赤穂浪士 遺髪墓
177. 今井家累代の墓(今井宗久 墓所・今井宗薫 墓所)
178. 茶聖 武野紹鷗之墓(臨江寺)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 武野紹鷗(たけのじょうおう・1502~55)は堺の豪商。若い頃には連歌師を志して三条西実隆に学び、連歌の美意識を土台として、珠光のわび茶をさらに深めた。千利休の師であるとともに、当時の堺の茶の湯に重きをなした。(表千家HPより) 臨江寺に隣接する南宗寺にも紹鷗の墓があるが、そちらは正確には供養塔らしい。
179. 三好一族の墓(三好元長・三好長慶・三好実休・十河一存 墓所)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 一番大きい宝篋印塔が、南宗寺を創建した三好長慶(みよしちょうけい・ながよし)の墓。その向かって右が父・三好元長、左がともに弟である三好実休(みよしじっきゅう)、十河一存(そごうかずまさ)の順で並び、その他の石塔は被葬者不明と現地で説明を受けた。長慶の墓は、八尾の真観寺、京都の大徳寺聚光院にもある。三好元長は堺の顕本寺、三好実休は堺の妙国寺、和泉市の妙泉寺、徳島の見性寺にもそれぞれ墓がある。
180. 千利休 墓所(表千家・裏千家・武者小路千家 歴代墓所)
181. 伝 徳川家康の墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: ご承知のとおり、大坂夏の陣で徳川家康は戦死した。茶臼山の本陣から籠に乗って敗走の途中、後藤又兵衛の槍に刺し貫かれ、そのまま堺へ逃げたものの、南宗寺で籠を開けるとあわれ家康、息絶えておった。それを埋葬したのがこの無銘の墓石であって、隣に山岡鉄舟が書いた「これは家康の墓」とする石碑もある。昭和42年に建てられたもっと分かりやすい家康の墓も境内にある。ちなみに槍の穴の開いた籠も日光東照宮宝物館にある。
182. 武野紹鷗 墓所(南宗寺)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 武野紹鷗(たけのじょうおう・1502~55)は堺の豪商。若い頃には連歌師を志して三条西実隆に学び、連歌の美意識を土台として、珠光のわび茶をさらに深めた。千利休の師であるとともに、当時の堺の茶の湯に重きをなした。(表千家HPより) この墓石に耳を当てると湯を沸かす音がするという。南宗寺に隣接する臨江寺にも紹鷗の墓がある。
183. 牡丹花肖柏 墓所(南宗寺)
184. 牡丹花肖柏 供養塔(大安寺)
185. 清正公廟(清正宮)
186. 文徳天皇皇子 惟喬親王墓
187. 真田昌幸公の墓
188. 北政所御墳墓(菅原道真夫人墓所)
189. 足利義政 墓所
190. 藤原定家 墓所
191. 伊藤若冲 墓所
192. 悪左府 藤原頼長 首塚(桜塚)
193. 長藩士戦亡霊塔(禁門の変 長州藩殉難者墓所)
194. 鎌倉時代の火葬塚(京都大学構内)
195. 被爆した墓石(旧慈仙寺 岡本宮内墓所)
196. 佛立霊地 開導日扇聖人御墓所(旧宥清寺跡)
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