1. 松永久秀 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 中央の建物の北側に南面して立っている。インターネットもない時代に戒名と没年月日を頼りに自力で探したけれど、今年(令和2年)の大河ドラマで注目されて来る人も増えたらしいから、そろそろ看板ぐらい用意してもいいのではないかと思う。
2. 野本輝久 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 慧光寺殿とある墓碑がそれ。野本式部少輔輝久は、永禄の変で足利義輝が暗殺される前に殺された人物であることぐらいしか分からなかった。菩提寺の慧光寺が浄福寺通一条上ルにある。
3. 松永尺五(昌三) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 松永尺五(昌三・1592~1657)は儒学者で、松永貞徳の子。京都に春秋館(西洞院通二条下ル)、講習堂(東堀川通二条下ル)といった私塾を設立した。講習堂があったところは現在、ANAクラウンプラザホテル京都(旧京都全日空ホテル)があり、敷地内に石碑が立っている(http://4sq.com/IYIpQl)。
4. 豊臣国松 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 豊臣国松(1608~15)は豊臣秀頼の一子で、大坂夏の陣のあと捕らえられ、六条河原で斬首された。享年八。墓碑は明治31年(1898)の再建で、元は新京極の誓願寺にあったが、明治44年に現在の豊国廟の場所に移された。
5. 本庄家一族の塔
6. 赤松連城 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 赤松連城(あかまつれんじょう・1841~1919)は、加賀出身で周防国徳山の徳応寺を継嗣。明治5年(1872)、大谷光尊の命で島地黙雷とヨーロッパに留学。帰国後、西本願寺の宗門の改革を行い、また廃仏毀釈の反対運動も展開した。この大谷墓地の中だけでも至るところに連城の撰になる石碑を見ることができる。
7. 司馬遼太郎 墓所
8. 島田左近(嶋田龍章) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 九条家に仕えた侍で、いわゆる幕末の天誅事件の最初の犠牲者。朝幕の間に立って活動し、安政の大獄の時には多くの志士の検挙に協力した。文久2年(1892)7月20日、二条の善導寺付近で薩摩の田中新兵衛らの襲撃を受け殺害され、首は四条河原に晒された。斬奸の趣は「此嶋田左兵衛権大尉事 大逆賊永(長)野主膳へ同腹致し不謂奸曲相巧 不可容天地大奸賊也 依之加誅戮 梟首せしむへき者也」と記された。
9. 種痘始祖 日野鼎哉 墓所
10. 三世 井上八千代(片山春子) 墓所
11. 韓天寿 墓所(韓大年先生故紙冢)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 韓天寿(かんてんじゅ・1727~95)は書家。本名は中川長四郎。京都の青木家に生まれ、伊勢松阪で両替商などを営む田丸屋中川家の養子となった。字は大年。東晋の王羲之、王献之に心酔したことから「酔晋」と号し、池大雅、高芙蓉と3人で白山、立山、富士山の日本三名山を登山し、3人して「三岳道者」の号を共有した。松阪清光寺に墓があり、ここは書いたものを埋めた塚と思われる。
12. 大谷墓地(西大谷)
13. 朱雀墳墓地
14. 大覚寺宮墓地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 後二條天皇皇孫 弘覚王墓・後二條天皇皇孫 深守親王墓・後二條天皇皇孫 深守親王墓・後伏見天皇皇曾孫 寛教親王墓・後宇多天皇皇子 性勝親王墓・正親町天皇皇孫 空性親王墓・後陽成天皇皇子 尊性親王墓・霊元天皇皇子 性応親王墓・後水尾天皇皇子 性真親王墓がある。誰も知らん…。
15. 蓮華峯寺陵飛地に号(朝原山20号墳)
16. 蓮華峯寺陵飛地は号(朝原山21号墳)
17. 戊辰之役東軍戦死者之碑(悟真寺)
18. 袈裟御前 首塚(戀塚)
19. 戊辰役東軍戦死者埋骨地(悲願寺墓地)
20. 悲願寺墓地
21. 天明義民 糀屋傳兵衛 墓所
22. 蓮華峯寺陵飛地ほ号(朝原山33・34号墳)
23. 蓮華峯寺陵飛地へ号(朝原山14・15・16・17・18号墳)
24. 亀山天皇皇后佶子(京極院) 蓮華峯寺陵
25. 黒谷東墓地
26. 清和天皇火葬塚
27. 高倉永祜 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 高倉永祜(たかくらながさち・1838~68)卿は、戊辰戦争の時、北陸道鎮撫総督として若狭から北陸を経て江戸に入った。さらに旧幕軍追討のため奥羽へ向かったが、越後高田で発病し31歳で死去した。
28. 相応院殿(徳川義直生母 お亀の方) 供養塔
29. 駿河大納言 徳川忠長 供養塔
30. 春日局 供養塔
31. 亀井茲矩 供養塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 亀井茲矩(かめいこれのり、1557~1612)は、毛利家に滅ぼされた尼子家の旧臣亀井秀綱の次女を山中鹿介の養女として娶り、亀井姓を継いだ。主君を替え戦国を生き残り因幡鹿野藩祖となる。墓の所在を示す駒札などはない(2020年5月現在)が、黒谷墓地参道登り口の下らへん右側にある三基の五輪塔が並ぶところは亀井家墓地であり、中央の「前武州太守中山道月大居士」が茲矩で、左は室時子(英樹院殿)、右は鹿介の塔。
32. 鳥居元忠 供養塔
33. 中島棕隠 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 中島棕隠(なかじまそういん、1779~1855)は儒学者、漢詩人。別号畫餅居士。狂号を安穴道人。通称は文吉。才子、粋人として知られ、祇園を詠んだ『鴨東四時襍咏(おうとうしいじざつえい)』で名を馳せた。頼山陽の山紫水明処にも近い二条新地に料理屋の銅駝余霞楼(どうだよかろう)を開いた。本墓は泉涌寺にあるという。
34. 山中鹿介 供養塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 山中鹿介の墓は全国に多数ある。黒谷の墓は「潤林院殿大誉浄了大禅定門」の戒名が記されているのがそれであるが、駒札などは設置されていない(2020年5月現在)。黒谷墓地参道登り口の下らへん右側にある三基の五輪塔が並ぶところは亀井家墓地であり、右端が鹿介の墓。中央の五輪塔は鹿介の養女が嫁いだ亀井茲矩墓で、左の一回り大きい五輪塔が鹿介の養女で茲矩に嫁いだ時子(英樹院、亀井秀綱次女)の墓。
35. 戸田一心斎 墓所
36. 高木文平 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 高木文平(たかぎぶんぺい、1843~1910)は、丹波国北桑田郡神吉村(京都府南丹市)生まれの実業家。京都商工会議所初代会長。維新ののちの京都の近代化に大きな貢献をした。明治8年(1875)に京都府に出仕。琵琶湖疏水の工事にも携わり、明治21年に田辺朔郎とともに渡米し、水力発電技術を持ち帰り、蹴上発電所や宇治川発電所の建設に尽力。日本初の市街電車である「京都電気鉄道会社」を設立して社長に就任した。
37. 山崎闇斎 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 山崎闇斎(やまざき・あんさい、1619~82)は、江戸時代前期の儒学者・神道家。山崎嘉右衛門敬義(もりよし)。朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者、また、神道の一派である垂加神道(すいかしんとう)の創始者。とにかく、後世に与えた影響絶大だったことは、この黒谷墓地内に闇斎墓へ導く道標がいくつかあることからも知れよう。現在、それで辿り着くのはなかなか困難であるが塔の北側あたりを探墓されたい。
38. 竹内栖鳳 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: いわずと知れた竹内栖鳳(たけうち・せいほう、1864~1942)の墓。参道に面した生垣の中にある。文展審査員、帝展(現日展)審査員、帝室技芸員、帝国美術院会員、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授、フランス・レジオンドヌール勲章、ハンガリー最高美術賞、ドイツ・ゲーテ名誉賞、第1回文化勲章など、数々の栄誉あれども墓石には「栖鳳墓」とのみあり。水塔婆があると見えぬかもしれぬ。
39. 藤村庸軒 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 茶人・藤村庸軒(ふじむら・ようけん、1613~99)は、千家三代千宗旦の直弟子で、宗旦四天王の一人。庸軒の門人の茶は庸軒流として一流をなした。金戒光明寺塔頭の西翁院は、庸軒の祖父源兵衛宗徳の創建で、庸軒が建てた茶室澱看席(よどみのせき、重要文化財)がある。
40. 野村左兵衛 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 会津藩士・野村左兵衛(のむら・さへえ、1815~67)は、会津藩公用人。松平容保の京都守護職就任によって同行して上洛したが、京都で病を得て客死した。人望厚く、在京の間、朝廷や諸藩との交渉に務めたという。
41. 田中源太郎 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 亀岡の人は、楽々荘の人として知っているであろう田中源太郎(たなか・げんたろう、1853~1922)。 京都銀行の前身である亀岡銀行、京都電燈株式会社、京都鉄道株式会社などの設立に関わった。また、京都府議会議員、衆議院議員、貴族院多額納税者議員なども務め、関西の政財界に重きをなした。山陰線で京都に向かう途中、列車が脱線して保津峡に転落し、非業の最後を遂げた。
42. 近江屋 井口新助 墓所
43. 田中吉政 墓所
44. 黒谷西墓地
45. 楢林由仙 墓所
46. 雲光院殿(徳川家康側室 阿茶局) 墓所
47. 正清院殿(徳川家康三女・浅野長晟正室 振姫) 墓所
48. 北垣国道 墓所
49. 池玉瀾 墓所
50. 大江玄圃(久川靱負) 墓所
51. 王鞬南 墓所
52. 田能村直入 墓所
53. 黒谷北墓地
54. 厨川白村 墓所
55. 吉田芝墓
56. 白幽子 墓所
57. 小澤蘆庵 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 小沢蘆庵(おざわ・ろあん、1723~1801)は、江戸時代中期の歌人で、平安和歌四天王の一人。晩年は岡崎に住み、その邸宅(http://4sq.com/WSEsoK)には蒲生君平が仮寓した。蘆庵の遺志で、風光明媚な心性寺に葬られたが、心性寺は廃寺となり、一帯は島津源蔵の屋敷などの時代を経て、現在はバプテスト病院の敷地となっている。蘆庵墓の傍らには門下の田山敬儀(たやま・ゆきのり)の墓がある。
58. 道承親王墓以下六墓 聖護院宮墓地(丸山墓地)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 聖護院門跡三十八世・道承入道親王(1695~1714、伏見宮邦永親王第一王子)、三十九世・忠誉入道親王(1722~88、中御門天皇第三皇子)、四十世・増賞入道親王(1734~70、有栖川宮職仁親王王子)、四十一世・盈仁法親王(1772~1830、閑院宮典仁親王第七王子)、四十二世・萬寿宮(1820~31、伏見宮貞敬親王王子)、嘉言親王(雄仁法親王、1821~68、伏見宮邦家親王王子)の無縫塔あり。
59. 藤貞幹 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 藤貞幹(とう・ていかん、1732~97)は、江戸時代中期の有職故実家。天明元年(1781)、『衝口發』を著し、神武天皇は呉の泰伯の子孫、記紀の神代の年数は荒唐無稽等々の主張を本居宣長が批判し、貞幹を狂人であるとして『鉗狂人』を著した。これに対し、上田秋成が反駁を加え、いわゆる「日の神論争」へと発展していった。墓石には号の「無佛斎」の名が彫られている。
60. 稲生若水 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 稲生若水(いのう・じゃくすい、1655~1715)は、江戸時代中期の本草学者、儒学者。名は稲生宣義、字は彰信、号は若水、白雲道人。淀藩の御典医の家に生まれたが、その学識から加賀藩の前田綱紀に知られるところとなり、特別待遇で召抱えられた。古今の漢籍から植物、動物、鉱物、薬物などの記事を調査した本草学の大著『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂は弟子へと引き継がれてようやく完成した。
61. 岡白駒(龍洲) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 儒者・岡白駒(おか・はっく、1692~1767)は、播州網干の人で、龍洲(りゅうしゅう)と号した。古典の注釈や、白話小説の翻訳を多く行った。佐賀藩の支藩である蓮池藩に仕える。河野恕斎の父。
62. 成瀬仁蔵 墓所
63. 村山槐多 墓所
64. 岩瀬忠震 墓所
65. 市村羽左衛門 墓所
66. 尾上梅幸 墓所
67. 小幡勘兵衛景憲 墓所
68. 聖護院門跡 長谷廟所
69. 伴蒿蹊 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 伴蒿蹊(ばん・こうけい、1733~1806)は、『近世畸人伝』の著者として有名。名は資芳(すけよし)、閑田蘆(かんでんろ)と号した。澄月、慈延、小沢蘆庵とともに「平安の和歌四天王」の一人にも数えられる歌人。伴氏は近江八幡の豪商で、36歳で家督を譲った蒿蹊は著述に専念した。ここの墓域の一帯は伴氏の墓地で歴代が眠っており、掃苔して「閑田蘆」の字を探し出し蒿蹊の墓碑と判別してほしい。
70. 良正院(徳川家康次女 督姫) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 督姫(とくひめ、1565or75~1615)は、徳川家康と側室西郡局との間に生まれた姫。天正11年(1583)、徳川と北条の和睦の際に北条氏直の正室として嫁いだ。秀吉の小田原征伐で北条氏は没落し、氏直と死別した督姫は文禄3年(1594)池田輝政に再嫁した。慶長20年(1615)、二条城で逝去。院号は良正院殿。知恩院塔頭良正院は菩提寺で、墓は知恩院総墓地内にある。案内板はない(2020年6月現在)。
71. 酒井忠次 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 徳川四天王の筆頭と称される酒井忠次(さかい・ただつぐ、1527~96)は、家康人質時代より傍近くに仕え、その生涯の功労数知れず、石川数正出奔後は第一の重臣となった。眼を患って隠居した後は京都に居住し、慶長元年(1596)に没した。院号は先求院殿。知恩院塔頭先求院は菩提寺であり、墓は知恩院総墓地内にある。これだけの有名人でありながら案内板もなく(2020年6月現在)、片喰の紋でも頼りに探すしかない。
72. 山岡道阿弥 墓所
73. 淡海槐堂(板倉筑前介) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 『京都名家墳墓録』によれば、岡崎神社南方の池の畔にあったという。いつ知恩院に移されたか不明。
74. 霊元天皇皇女 吉子内親王墓
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 吉子内親王(よしこないしんのう、1714~58)は、霊元院の第十三皇女で、幼名は八十宮(やそのみや)。生後すぐに七代将軍徳川家継と婚約するも、家継が享年八で逝去したため、将軍家への皇女降嫁はならなかった。速攻で後家となった八十宮は他へ嫁すること叶わず、享保17年(1732)に出家、浄琳院宮(じょうりんいんのみや)と称し、宝暦8年(1758)に45歳で薨去した。嫁いでいないため、墓は宮内庁の管理。
75. 知恩院宮墓地
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 第2代門跡 尊光親王(後水尾天皇皇子、享年35)、第3代門跡 尊統親王(後西天皇皇孫、享年16)、第4代門跡 尊胤親王(霊元天皇皇子、享年25)、第5代門跡 尊峯親王(霊元天皇皇曾孫、享年48)、第6代門跡 尊超親王(霊元天皇皇曾孫、享年51)の墓所。初代門跡の墓は泉涌寺にある。墓域外北側に長宮(たけのみや、霊元天皇五世皇孫、享年3)の墓。隣に宮内庁の管轄外だが徳川家慶正室楽宮喬子女王の墓がある。
76. 高芙蓉 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 高芙蓉(こう・ふよう、1722~84)は江戸時代中期の儒者にして、「印聖」と讚えられる篆刻家、書画家。通称は大嶋逸記(おおいま・いつき)。池大雅、韓天寿と親しく、3人して白山・立山・富士山を登り「三嶽道者」の号を共有した。一心院の墓碑は生前に自ら建立した寿蔵碑で、江戸で客死した芙蓉の本墓は小石川無量院に建てられたが、後に移設され現在は芝の天徳寺にある(http://4sq.com/KnbkwZ)。
77. 鈴木百年 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 鈴木百年(すずき・ひゃくねん、1825~91)は、幕末から明治初期の画家。京都画壇に一大勢力を形成し鈴木派と称された。晩年は東京に居を移し、64歳で没した。一心院の墓碑は長男の鈴木松年が建立したもので、墓前の石は硯で、墓参時にはそれで墨をすり短冊に絵を描き供えたという。向かって右に妻・春香、左に三男鈴木萬年の墓がある。松年の墓は長楽寺にある(http://4sq.com/1mw8hL2)。
78. 塩川文麟 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 塩川文麟(しおかわ・ぶんりん、1808~77)は、幕末から明治初期の画家。幕末の平安四名家(横山清暉[四条派]、岸連山[岸派]、中島来章[円山派])と称される。師は四条派の岡本豊彦。著名な門下生に京都府画学校を設立した一人である幸野楳嶺などがいる。初期の代表作に舞鶴報恩寺本堂障壁画44面があり府指定文化財。京都御所御常御殿の和耕作図も文麟の画。墓碑を揮毫した「銭懌」は清国の文人・銭子琴と思われる。
79. 平敦盛 供養塔
80. 熊谷蓮生直実 供養塔
81. 竹中半兵衛重治 墓所
82. 朝山日乗 墓所
83. 三好長輝(三好之長) 墓所
84. 羽柴秀勝(於次丸) 墓所
85. 蒲生氏郷正室 冬姫(相應院殿) 墓所
86. 土佐光起 墓所
87. 猫間塚
88. 聖護院宮墓(地蔵山墓地)
89. 石川丈山 墓所
90. 阿波内侍ほか建礼門院侍女墓所
91. 四代 橘家圓喬 墓所
92. 小野小町の墓
93. 中山忠光 墓所
94. 五代友厚 墓所
95. 死節群士之墓(長州藩殉難四十八士 墓所)
96. 菅楯彦 墓所
97. 土居通夫 墓所
98. 大阪府警察官吏墓地
99. 山邊丈夫 墓所
100. 高崎親章 墓所
101. 三輪執齋 墓所
102. 順徳天皇皇曽孫 志玄王(無極志玄)墓
103. 日什大正師御霊廟
104. 花登筐 墓所
105. 天王塚陵墓参考地
106. 慈鎮和尚宝塔
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 慈鎮和尚(じちんかしょう・1155~1225)は関白藤原忠通の子で、一般的には慈円(じえん)。『小倉百人一首』には前大僧正慈円の名で撰ばれている。関白九條兼実と母を同じくする兄弟で、幼くして青蓮院に入り出家した。天台座主を務めること七度。三条白川房に大懺法院を建て祈祷の道場としたが、これを吉水に移し大成就院とし、吉水僧正と呼ばれた。歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』を著したことが有名。
107. 伊東甲子太郎 墓所
108. 藤堂平助 墓所
109. 山中長俊 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 山中長俊(やまなか・ながとし、1547~1607)は、甲賀の出身。山中山城守、山中橘内(きちない)などの名で知られる。六角氏の配下であったが、織田氏に属し、豊臣氏の天下となると秀吉の右筆として仕えた。(※立て看板に「橘長後」とあるが、この看板のみならず、西教寺は全般的に間違いと思われる表記が多い。) NHKの『真田太平記』(1985)を見た人には、戸浦六宏が演じた山中内匠長俊を覚えておられよう。
110. 真盛上人御廟
111. 染殿 五輪塔
112. 真盛上人供養塔
113. 長谷川藤広 墓所
114. 真宗高田派中興 真慧上人 墓所
115. 長岡監物一族 墓所
116. 前田利家六女 菊姫(前田菊子) 墓所
117. 円戒国師(真盛上人)寿塔
118. 比良太郎兵衛 墓所
119. 西淡海公古墳(聖武天皇陵飛地い号)
120. 東淡海公古墳(聖武天皇陵飛地ろ号)
121. 伝 杉の大方の墓
122. 相合元綱 墓所
123. 毛利興元 墓所
124. 毛利幸松丸 墓所
125. 貞致親王妃 好君墓
126. モルガンお雪 墓所
127. 千人供養塔
128. 毛利隆元夫人 尾崎局 墓所
129. 清盛塚
130. 長泉寺山古墳群
131. 西山1号墓
132. 甲弓山 鬼神塚
133. 真木和泉 墓所
134. 安楽庵策伝 墓所
135. 山脇社中解剖供養碑
136. 山脇東洋夫妻 墓所
137. 霊山墓地
138. 藤本鉄石 墓所
139. 吉村寅太郎 墓所
140. 松本奎堂 墓所
141. 天誅組志士墓所
142. 宮部鼎蔵 招魂碑
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 宮部鼎蔵(みやべていぞう・1820~64)は林桜園に国学を学び、吉田松陰と東北を旅行するなど、癸丑以来の生粋の尊攘派志士であるが、京都で池田屋事件に遭遇し落命。京都岩倉の三縁寺に池田屋事変殉難烈士墓があるほか、ここ霊山墓地の招魂碑、熊本の小峰墓地、黒髪の桜山神社、御船町の生家近くの鼎春園にも宮部家一族の墓がある。
143. 古高俊太郎 墓所
144. 霊明神社 西奥都城
145. 伴林光平 招魂碑
146. 平野次郎國臣 招魂碑
147. 三枝蓊 墓所
148. 住谷寅之介 墓所
149. 朱雀操(林田衛太郎) 墓所
150. 元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所
151. 天誅組 生野義挙 殉難者合祀墓
152. 加藤正方(片岡風庵) 墓所
153. 安楽寿院 五輪塔
154. 旧大乗院 五輪塔
155. 岩船寺 五輪塔
156. 宮本伊織 墓所
157. 小笠原家累代墓所
158. 小笠原少斎 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 切支丹ゆえに自害のできぬ細川ガラシャ夫人を介錯したことだけが有名な小笠原少斎。後世の創作があるのか、真実はどうあれ、ガラシャ夫人と同じ命日が刻まれていることが胸熱。
159. 長谷幸輝検校 墓所
160. 秋山玉山 墓所
161. 加屋霽堅 墓所
162. 宮部鼎蔵 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 宮部鼎蔵(みやべていぞう・1820~64)は林桜園に国学を学び、吉田松陰と東北を旅行するなど、癸丑以来の生粋の尊攘派志士であるが、京都で池田屋事件に遭遇し落命。京都岩倉の三縁寺に池田屋事変殉難烈士墓があるほか、京都霊山護国神社の霊山墓地、ここ熊本の小峰墓地、黒髪の桜山神社、御船町の生家近くの鼎春園にも宮部家一族の墓がある。
163. 細川藤孝 墓所
164. 細川忠興 墓所
165. 沼田麝香(細川藤孝正室) 墓所
166. ガラシャ夫人の手水鉢
167. 細川斉茲 墓所
168. 細川斉樹 墓所
169. 細川韶邦(慶順) 墓所
170. 丹波亀山藩家老 奥平広胖(与三左衛門) 墓所
171. 織田信長 五輪供養塔
172. 中御門天皇皇女 女五宮(清浄法院)墓
173. 霊元天皇皇子 力宮(受楽光院)墓
174. 泰勝寺二世 春山玄貞 墓所
175. 泰勝寺開山 大淵玄弘 墓所
176. 織田信長 供養塔
177. 徳川義直 供養塔
178. 原惣右衛門元辰夫妻 供養墓
179. 殉國戦士之碑
180. 天王平奥都城(大本 歴代教主墓地)
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 大本の歴代教主の墓所。6基の奥都城があり、向かって手前右が開祖・出口なお(直)、手前左が聖師・出口王仁三郎(おにさぶろう)、奥二列目中央に2代教主・出口すみ(澄)、左に4代教主・出口聖子(きよこ)、三列目右が3代教主・出口直日(なおひ)、左が尊師・出口日出麿(ひでまる)。
181. 平清盛公乃塚
182. 聖武天皇供養塔
183. 菅原是善卿墳墓
184. 半七塚
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 岡本綺堂の『半七捕物帳』の半七の塚。『銭形平次捕物控』で知られる野村胡堂が昭和24年(1949)に「捕物作家クラブ」発会式に浅草花やしきに建立したという。近くに岡本綺堂遺愛の「青蛙神」(せいあしん)がある。
185. 広瀬旭荘 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 広瀬旭荘(ひろせきょくそう・1807~63)、豊後日田の人。日田の有名な私塾、咸宜園(かんぎえん)の広瀬淡窓(たんそう)は25歳年上の兄で、後に養子となり咸宜園2代塾主となった。しかし、30歳のとき大坂に来て開塾し、日田を離れて終生大坂を根拠に活躍した。詩文をよくし、清末の兪樾(ゆえつ、兪曲園)が日本の漢詩を選んだ『東瀛詩選(とうえいしせん)』44巻では最も多い175首が選ばれた。
186. 藤井藍田 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 藤井藍田(ふじいらんでん・1816~65)は、大坂の儒学者。画を中井藍江と田能村竹田、書を八木巽処、儒学を広瀬旭荘に学び、尊王攘夷論者となる。安政4年(1857)に開いた塾「玉生堂」(https://4sq.com/2BnEldK)には勤王の志士が出入りし、新選組に目をつけられて慶応元年(1865)に捕縛され、屯所であった万福寺(http://4sq.com/1IB8l2U)で拷問の末、牢死した。
187. 間 長涯(間 重富) 墓所
k̦̮̮̭̰̪̩͇͓̦͒̂̓͐̽̆̉̊̇͒o̳̙̣̲̞̠̙͖̖͖̩͗̈́͛͆̃͋̊̔̒̓̀̏r̩̜̙͖̠̪̫͖͖̖͖̐̌̐̾̿͊y͕̬̯̠͙̬̓̏̒̂̎̑̎̾̒͗́ͅu͇͔̞̞͖͉̞͊̌͋̈̄̀̅́̿ m̙̗̱͇͕̟̀̈́͛͂̐̽̋͌̄̚̚ͅó͕̙͔͍͙͖̘̳̳̗̆͊̾͊̉́n̠̠̤̣̮̰̙͌̇̄̾̑̏̾̅̔̋̆̚ͅ: 間長涯(はざまちょうがい、1756~1816)こと間重富(しげとみ)は、大坂の質屋・羽間屋(はざまや)の主人にして天文学者。家の近くの富田屋橋の上で天文観測を行った。西洋の天文学を取り入れた寛政暦の施行の際には、幕府天文方高橋至時とともにその任につき、江戸で改暦の作業にあたった。大坂に戻ってからも天文観測を続け、その関係資料は平成28年(2016)に「間重富関係資料」として重要文化財に指定された。
188. 殉難忠士之墓
189. 即非如一 墓所
190. 彦山歴代座主墓所
191. 慶応之役小倉藩戦死者墓
192. 小倉炭鉱殉職者慰霊塔
193. 豊前小倉藩主 小笠原家墓所
194. 国井化月坊 墓所
195. 長原武 墓所
196. 不破矢足 墓所
197. 伝 覚性禅尼(逸見万寿丸 母) 墓所
198. 亀山城主 湯川家歴代供養塔
199. 安珍塚
200. 船守弥三郎夫妻 供養塔
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