【めいじてんのうごこやすみどころきこくてい】明治5(1872)年5月23日明治天皇は巡幸に出発。伊勢・大阪を経て入京。6月4日再度大阪に向かう途中,この地で休憩。中国・九州・四国を巡幸,7月10日海路神戸を発ち,12日横浜に到着し,還御。枳殻邸は,東本願寺の別邸。明暦3(1657)完成。正しくは渉成園というが,園内と周囲に植えられた枳殻(からたち)にちなみ枳殻邸と呼ばれた。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。その折5月には下京十八組(修徳)小学校,6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察。この石標は上京二十九組小学校の跡を示すものである。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日中学校・女学校・女紅場を視察。織工場では織機・綴れ織・機械の縫い方・西洋仕立等を一覧。この石標は織工場の跡を示すものである。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月3日,上下賀茂神社に行幸した。その帰途,天皇はこの地にあった田中四郎左衛門が経営する寒天工製造場に立ち寄り巡覧した。この石標は明治天皇ゆかりの寒天製造場跡を示すものである。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日勧業場を視察。勧業場とは,遷都後の産業振興をはかるため,明治4(1871)年府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関で,商工業に関する事務・特産品の陳列 続きを読む
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, 続きを読む
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月7日神武天皇陵参拝のため奈良に向かう途中,この地の製工場で休憩した。この製工場は,同6年,京都府知事長谷信篤(1818~1902)が勧業政策の一環として設けたもので,水車や鉄製機械の製造が行われた。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月7日神武天皇陵参拝のため奈良に向かう途中,この地観月橋(豊後橋)で休憩した。この石標は明治天皇が休憩した観月橋を示すものである。 続きを読む
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月1日には,合薬会社を視察した。京都合薬会社(アポテーキ)は,京都の薬業界が設立した薬局で,医師の処方箋による調剤を行った。この石標はその合薬会社跡を示すものである。 続きを読む
【めいじてんのうごこやすみどころほんがんじきゅうだいきょうこう】明治13(1880)年7月20日,京都府巡幸中の明治天皇は七条停車場(京都駅)から神戸へ向かったが,その前に本願寺(西本願寺)大教校で休憩した。本願寺大教校は現龍谷大学の前身で,前年に開校したばかりで,天皇は講堂(現龍谷大学本館)などを視察した。この石標は明治天皇が休憩した本願寺大教校を示すものである。 続きを読む