1. 炎明新村
Rue. SATOH: 軍事情報局の眷村。「炎明」の名はかつて村の近くに大陸工作處研究所があり、大陸工作處が対外的に「炎明園」という名を使っていたからという。多くの建物は建て替え済みだが、南西側には黒瓦葺の建物も残る。
2. 馬祖新村
Rue. SATOH: 1957 年に建てられた陸軍眷村。1955 年に馬祖への派兵を命じられた陸軍八十四師団師団長・華心權大佐が、蒋介石夫妻に軍人及びその家族の住宅問題の解決を求めたことをきっかけに建てられたため「馬祖新村」の名が与えられた。門に掲げられた「馬祖新村」の文字は蒋介石夫人・宋美齡によるもの。
3. 嘉禾新村
Rue. SATOH: 日治時代は陸軍砲兵連隊の宿営地。光復後は聯勤 (聯合勤務總司令部) 通信修理廠が当地に移転したため、職員の宿舎して当村が建設された。台北市内で完全に残る聯勤眷村としては唯一のものだが、1956 年からは陸軍高級将校の官舎として使われていた。現在は 4 棟が歴史建築として保存されている。
4. 建業新村
Rue. SATOH: かつての海軍眷村。昭和 12 年に日本海軍が左營軍港を開いた際、この地域に多数建てられた日本海軍の官舎が元。今なおセメント瓦の古い日本家屋が残る。
5. 勝利新村
Rue. SATOH: 日本統治時代の日本建築が多数残る街区。元々は屏東飛行場 (現在の屏東機場) に駐屯していた陸軍飛行第 8 聯隊の再編に伴う人員増に対応するため、1937 年に現在の中山路及び青島街に作られた崇蘭陸軍官舍群。飛行第 8 聯隊は 1927 年に九州の大刀洗から移駐したが、最初の官舎群はここから東、現在の成功路・信義路周辺に作られ、後に崇仁新村成功區となる。
6. 莒光新村
Rue. SATOH: 玄武岩と珊瑚石で造られ、セメント瓦屋根が載った建物が並ぶ陸軍眷村。篤行十村の西側に、1960、62、65 年と段階的に建設された。遷台時に大陸から来た将校・下士官が主な住人だったという。
7. 篤行十村
Rue. SATOH: 1950〜51 年にかけて現在の形になった陸軍眷村。日本統治時代の澎湖島要塞砲兵大隊及び澎湖島要塞司令部の木造軍舎群、及び光復後の工兵による増築部分 (工兵自建) から成る。日本時代の軍事施設は光復後に接収されて馬公要塞司令部が成立したが、その幹部たる砲兵高級将校が多数居住したことから、当時は「将校眷村」と呼ばれたという。この西側に増築された莒光新村と合わせて「金龍頭眷村」とも呼ばれる。
8. 清水眷村文化園区
Rue. SATOH: 元々は日本石油の社宅だった場所で、1949 年に貴州省の空軍発動機工場が台湾に移転した際に「信義新村」として建てられた空軍眷村。清水には第六海軍燃料廠があり、それに関連する施設や宿舎は光復後に忠勇新村、信義新村、慈恩二十村、和平新村、銀聯二村、陽明新村、果貿一村となった。台鐵の最寄駅は清水駅だが、当駅は西側に出口がなく徒歩だとかなりの大回りとなるので、台中駅からバスで訪れるとよい。
9. 浮洲親民公園
Rue. SATOH: 力行新村・文和新村・慈仁一村という 3 つの眷村の跡地に作られた公園。入口には力行新村の門柱が残る。内部には眷村の建物が 9 棟残されており、台灣藝術大學の学生によるペイントが施されている。
10. 眷村願景館
Rue. SATOH: 篤行十村 / 莒光新村附近のジオラマは必見。
11. 憲光二村
Rue. SATOH: 桃園県龜山郷に造られた 9 つの眷村の一つ。1968 年に造られた桃園唯一の憲兵眷村であり、長屋状の住居が並ぶ。台北市内湖に既に「憲光新村」が存在したため「憲光二村」と名付けられたという。2008 年のドラマ「光陰的故事」のロケ地ともなった。建物だけでなく広場を含む広い範囲が保存範囲となっており、かつての眷村の暮らしぶりがよく分かる。ボランティアガイドによる説明も受けられる。
12. 空軍三重一村
Rue. SATOH: 第二次大戦中は日本軍の高射砲陣地だった場所に 1954 年に建てられた空軍眷村。この附近にある光興國小はかつての憲兵学校、光榮國中は空軍高射砲司令部と、三重は軍事色の濃い街だった。環河南路と同安東街に挟まれた地域はかつての三重二村だが、現在は何も残っていない。
13. 台中市眷村文物館
Rue. SATOH: かつての空軍眷村の跡地を博物館としたもの。この地は元々空軍の技術者を集めた「北屯新村」という眷村だったが、後にパイロット向けの住宅も増築して「凌雲社區」と改称された。建物は展示用に綺麗に改装されており廃墟感はないが、この附近には未だセメント瓦の眷村時代の建物が僅かに残存している。
14. 新竹市眷村博物館
Rue. SATOH: 入館無料。1 階は眷村の歴史背景や、新竹を拠点とした黒蝙蝠中隊 (中華民国空軍 34 中隊) に関する資料展示。2 階は眷村の生活を示す展示で、ボランティアによる説明もあり。3 階は特別展など。日本統治時代に海軍新竹飛行場 (現在の新竹機場) があった関係で、光復後の新竹には空軍眷村が多数設立された。本館がある東大路沿いにも数多くの眷村があったが、現在は殆ど排除されている。
15. 宝蔵巌国際芸術村
Rue. SATOH: 元々は 17 世紀に建てられた寺廟だったが、大戦中に旧日本軍が高射砲部隊を配置。1960 年代から 70 年代にかけて外省人が違法建築を次々と建てたことで、今のような特色のある集落になった。2004 年に歴史建築として認定。現在は迷路のような細い路地に、様々なアーティストがスタジオを構えるエリアへと変貌。階段のある路地は極めてフォトジェニック。
16. 四四南村信義公民会館
Rue. SATOH: 聯合後勤司令部所属の第四十四兵工廠(手榴弾やサブマシンガンといった武器の製造工場)の工員が暮らした聯勤眷村で、最盛期は468戸が存在。兵工廠の南に位置したことからこの名前があり、兵工廠の西には同様に四四西村が、東には四四東村が存在した。日本統治時代の倉庫を改修して設立されたこともあり、当初は水道もトイレもない状況だったとか。軍人村と言われるが、大陸から来た非軍人やその家族も多く暮らしていた。
17. 中心新村
Rue. SATOH: 北投中心新村は眷村の中では数少ない、医療関係者が暮らしていた「醫護眷村」。末期は北投醫院を退職した関係者を中心に約 70 戸が残っていた。日本統治時代の木造建築も多数残存する。迷路のような路地に青天白日満地紅旗の小旗がはためく姿は必見。
18. 彩虹眷村
Rue. SATOH: 馬祖島の防衛を担当していた陸軍馬袓守備区指揮部によって 1963 年に造られた陸軍眷村である馬祖二村の一部。この地に暮らしていた退役軍人が描いた壁画がアートとして認められ、6 棟の建物が保存されている。この地域には他にも台貿五村、干城六村と 3 つの陸軍眷村があったが、2000 年代前半から住民の移転と建物の破却が進められ、残っているのはこの区画のみ。
19. 眷村故事館
Rue. SATOH: 元々は龜山郷にあった陸光三村の自治会オフィス (活動中心) で、1966 年の建築。陸光三村は 2004 年に破却され、かつての住民は全て近隣の千禧新城に移転している。
20. 合群里
Rue. SATOH: 元々は海軍眷村だった地区。現在はこの近郊にあったその他の眷村からの移転も含めた集合住宅群となっている。
21. 高雄市眷村文化館
Rue. SATOH: 左營區にあった 22 箇所の眷村の一つ海光三村に建つ文化館。高雄は軍港があった関係で海軍眷村が多く、その名が示す通り海光三村も海軍眷村。清朝時代にはこの地に鳳山城が建っていたが、日本統治時代に軍用地に転用され、その結果として光復後に眷村となった。かつては約 600 戸が存在したが、現在は大部分が集合住宅へと移転済み。
22. 321巷眷村藝術村
Rue. SATOH: 1920〜30 年代に建てられた、旧日本陸軍台湾歩兵第 2 連隊の官舎群。戦後は成功大学教授の宿舎として使われていた。修復されたものも含めて建物は多数残っており、見応えあり。
23. 水交社眷村文化園區
Rue. SATOH: かつての眷村「志開新村」を、数棟を残して破却し文化園区としたもの。「水交社」は1941年に設置された台南海軍航空隊の水交社 (海軍の親睦組織) が設置されていたことに因む (当時の地名は「汐見町」)。戦後は中華民國空軍第30地勤中隊が水交社及び附近の海軍官舎を接収。1953年の遷台後は空軍総司令部や空軍一聯隊もここに居を構えて拡大化。一帯は1968年に「志開新村」と命名される。
24. 崇實新村
25. 孫立人将軍行館 (族群音楽館)
Rue. SATOH: 日本統治時代の 1925 年に屏東で編成された陸軍飛行第 8 聯隊 (1938 年から戦隊となる) の隊長官舎として利用されていた建物。戦後は日中戦争で活躍した孫立人陸軍二級上将が一時期官邸として利用。その後は空軍招待所として使われていた。
26. 将軍之屋
Rue. SATOH: 1936〜37 年に建てられた日本統治時代の軍人官舎が中華民国空軍高級将校の邸宅に転用され、それが 2009 年に博物館化されたもの。屏東には日本統治時代の 1920 年に屏東飛行場が、その後陸軍飛行第八聯隊が置かれた。光復後は中華民国空軍第六聯隊がそれらの施設を接収したため、この近辺一帯は空軍眷村となっている。
27. 二空新村圓夢樹屋
28. 二空新村眷村文物工作室
29. 郭柏川記念館
Rue. SATOH: 東京美術学校 (現在の東京芸術大学) で学び、戦後は省立工學院建築系 (現在の成功大學建築系) で教鞭を取った芸術家・郭柏川の住居跡。改修されてはいるものの、床の間や縁側の構造はそのまま残っており、日本官舎時代の雰囲気を偲ばせる。入館無料。
30. 景苑庭園咖啡
Rue. SATOH: 張其中将軍の官邸をカフェに改装したお店。元々は日本統治時代の軍人官舎という由緒ある建物。
31. 新竹市黒蝙蝠中隊文物陳列館
Rue. SATOH: 冷戦時代に中国大陸への夜間偵察を実施していた黑蝙蝠中隊 (中華民国空軍 34 中隊) に関する資料館。入館無料。黑蝙蝠中隊は新竹機場を夕刻に出発し、超低空で大陸に侵入して偵察任務に従事していた。「黑蝙蝠」の名は夜間にレーダーを使って偵察を行うことから。かつてのこの近辺には眷村が多く、陳列館南の錦華街近辺には空軍十村が、その向かい側には空軍八村 / 九村が存在した。
32. 黄埔新村
33. 光復新村
Rue. SATOH: 1956 年に台湾省政府教育庁、衛生処、印刷廠の従業員向けに開かれた眷村。英国のガーデンシティをモデルに設計され、緑地を広く取ったモダンな住宅地として開設された。想像以上に広く、建物も多数残る。2023 年時点では未整備だが、新生路北側の中興路附近に並ぶ煉瓦造りの家屋群も見応えあり。
34. 審計新村
Rue. SATOH: 1956 年から台中県に遷された台湾省政府の組織のうち、審計処及び新聞処の職員官舎として 1969 年に設けられた住宅地。1998 年の台湾省政府停止後は荒廃していたが、2015 年から現在のような文創園区として整備された。
35. 孫立人将軍記念館
Rue. SATOH: 白色テロの時代に「部下の叛乱を容認し、共産党スパイを匿った」として 30 年以上も軟禁された孫立人将軍の軟禁場所となった邸宅。元は日本統治時代に建てられた日本住宅。
36. 双龍里
Rue. SATOH: 向上路から公益路の範囲は、日本統治時代の 1942 年に完成した中流住宅街である大和村の西半分。光復後は空軍の眷村である模範新村となった。2023 年現在、ごく僅かだがかつてを偲ばせる建物が残る。
37. 蛤蜊兵営
38. 信国社区文物館
39. 自強新村
40. 醒村
41. 飛雁新村
42. 貿易四村興建碑
43. 将軍府
44. 宏南里
45. 宏毅里
46. 煥民新村
Rue. SATOH: 1950 年に遷台した中華民国空軍が蟾蜍山に國防部防空司令部 (後の空軍作戰指揮部) を設けたことで整備された眷村。「煥民」の名は 1962 年に徐煥昇空軍上将と王衛民空軍中将の名前から付けられた。台北では唯一完全な形で残る空軍眷村で、2010 年に全住民が萬隆の軍舎に転居済。周囲には日治時代の総督府農業試験所の宿舎群も残る。
47. 復興老兵文化園區
48. 太武新村眷村文創園区
Rue. SATOH: 1958 年の八二三砲戦 (金門砲戦) に参加した高級将校とその家族に向け、金門防衛司令部が建てた軍人村。一つの棟に 4 戸が入り、各戸に広い庭が付くスタイル。高級将校の邸宅群だっただけあって、米軍住宅のようなゆとりある空間は他の眷村とはまるで異なる趣。
49. 第六燃料廠新竹支廠
50. 將軍村
51. 建國一村
52. 樂群村
53. 再見捌捌陸臺灣眷村文化園區
54. 高雄市文化景觀及眷村保留區
55. 轉角壹貳壹
56. 將軍好宅
57. 忠貞新村文化園区
Rue. SATOH: 2004 年に取り壊された忠貞新村は「異域孤軍」や「泰緬孤軍」と呼ばれた部隊の眷村。国共内戦末期の 1949 年、雲南省からタイ・ミャンマー国境附近へ逃亡し、いわゆる「黄金の三角地帯」に拠点を設けてゲリラ戦を実施していた国府軍の一部を指す。孤軍は1953〜54 年に国民政府によって台湾へ遷され、当地に設けられた忠貞新村の住民となった。周囲には雲南やタイ・ミャンマー料理の店が並ぶ。
58. 岩山新村
Rue. SATOH: 芝山岩に設けられた国防部保密局 (後の軍事情報局) の職員用に設置された眷村。他にもこの附近には雨聲新村、雨後新村、忠義一村、忠義二村、忠義三村、懐德新村が存在した。芝玉路一段 79 巷 2、4、10 號が歴史建築に認定されたが、2023 年 11 月時点では封鎖されている。
Foursquare © 2024 愛情を込めてNYC、CHI、SEA & LAで作られています
最高のウェブ体験を提供するために、最新で最高のテクノロジーを使っています。ブラウザの設定で JavaScript を有効にして継続してください。
手持ちのスマートフォン用に Foursquareをダウンロード して、あなたの周りの世界を探索しよう!